3店方式の父、水島年得物語

2019.11.17 / コラム

全国に先駆けて3店方式が大阪府警に認められたのは昭和36年2月のことだった。それまで景品の買い取りは全国的に暴力団が行っていたが、暴排と戦争未亡人や身障者寡婦の雇用目的に買い取り業務を大阪身障者未亡人福祉事業協会で、景品問屋は大協商事が行うようになった。これが3店方式の原点だ。では、なぜ、大阪府警に認められたのか?

3店方式の生みの親ともいうべきキーマンが水島年得だ。水島のアイデアと行動力がなければ風営法をクリアできなかった。

水島は戦前、大阪府警の警察官だった。昭和11年には警部補としてモンゴルに渡る。19年には17の署を統括する蒙古連合自治政府警察隊長となり、副参事官(今でいう副知事)の要職を兼任する。

終戦後、日本に引き上げてきた水島は、警察を退官して民間人となり、大阪の目抜き通りでもある心斎橋のド真中で75台(名古屋メーカー)のパチンコ店を開業している。

戦後、荒廃した日本で庶民の娯楽として復活したパチンコは忽ち大ブームになる。この人気にあやかってパチンコ景品であった「タバコ」の換金行為をする「買人」が客とパチンコ店の仲介役として利ざやで利益を出す者が登場するようになる。

この換金行為に目を付けた暴力団が介入してくるようになる。タバコの換金行為をたばこ専売法違反で規制したが、買い取るパチンコ景品がチューインガムや砂糖に取って替わる。

景品換金利権を巡る抗争が激化する一方だった。暴力団を締め出す方策を模索した結果、水島年考案して誕生したのが3店方式で、やがては「大阪方式」と呼ばれ、全国へ拡大して行った。

時代は前後するが、大遊協が設立されたのは35年2月で、初代理事長に水島年得が就任している。その1年後に水島が考案した3店方式が大阪府警に認められている。理事長としての大仕事が3店方式を府警に認めてもらうことだった。

それまで警察に相手されていなかった業界が、対等に話が出きるようにしたのが水島の最大の功績ともいえる。それができたのも元警察官僚というキャリアだ。水島が生粋のパチンコ業界人だったら、こうもスムーズに3店方式が認められたとは思えない。

水島はどんな人も反対しようのない目標を掲げ、結局なにも実現されない事態を続ける事が多い中、現実をさばいて行く策と人的関係の織り合わせ方に執念を乗せ、「総親和」「孫子の代まで」を業界の標語とした。

42年5月、全国遊技業協同組合連合会が発足して、初代理事長に水島が就任する。

全遊連時代も自民党の大物政治家に対して警察人脈をバックにホール業界の地位を築く。清濁を飲み合わせ、人の事に奔走する稀有の人徳がそこにはあった。

警察官僚から政治家になるケースはあるが、警察官僚からホール経営はない。

今、警察官僚出身のホール経営者が現れたら、釘問題にどう着地点を見出してくれるだろうか。

平成の水島年得の登場が待ち望まれる。






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