熊本、復興と改革の最前線(第2部) 九州最後の牙城・熊本、等価交換の終焉①
2026.09.23 / ホール九州で唯一、等価営業を守り続けてきた熊本が、ついに非等価へ踏み出した。客離れへの恐怖を抱えながら、なぜ県内ホールは足並みをそろえたのか。組合決議の舞台裏と3店舗の営業現場を訪ね、売上、還元、貯玉再プレイ、景品運用に表れた変化から、改革の成果と残された課題、熊本モデルの行方を追う。
10年前に見送った議論が再び動いた
九州で最後まで等価営業を維持してきた熊本県が、その看板を下ろした。議論の端緒は約10年前にさかのぼる。平成27年ごろ、消費税を巡る環境変化を受けて多くの県が交換率を見直すなか、熊本県遊協の執行部でも変更の是非が話し合われた。しかし、意見はまとまらず、理事会の議題に上がることさえなかった。
その後も一部のホールから見直しを求める声は上がったが、執行部内の意見は割れ、等価営業を継続した。状況を変えたのが、コロナ禍以降の経営環境の悪化である。遊技人口は20年前と比べて1000万人以上減少。遊技機価格は10年間でパチンコ、パチスロともに約15万~20万円上昇した。電気代や人件費も高騰し、外国人の就労資格が限られることによる人手不足も現場を圧迫する。県内ホール数が減り続けるなか、等価営業の維持そのものが店舗存続を脅かす段階に入っていた。
令和7年夏ごろから見直しを求める声が再び相次ぎ、県遊協は、限られた客を奪い合う「ゼロサム型営業」から脱する必要があると判断。執行部会での協議後、緊急理事会を含む2回の理事会を開催。九州各県の交換率や必要な移行手続きも調べ、約2カ月をかけて最低交換率を10.8割以上とする方針を決議した。隣県を中心とする九州各県の状況を踏まえつつ、熊本が持続可能な営業へ踏み出すための基準だった。
「本当に怖かった」強制力なき改革
議論は決して一枚岩ではなかった。稼働の高いホールを中心に、「交換率を変えれば客が等価店へ流れる」との反対意見や慎重論が出た。藤井理事長自身も組合のトップである一方、一人のホール経営者でもある。改革に失敗し、客離れが起きれば、店舗を維持できなくなるかもしれない。「本当に怖かった」。その言葉には、決断を促す側と経営を守る側の葛藤がにじむ。
最大の懸念は、一部店舗だけが等価営業を続けることだった。組合には交換率を強制する権限がない。県遊協は、「反対する店舗があれば責任を持って説明し、足並みをそろえる」と各ホールへ約束した。地区組合ごとに話し合いを重ね、県内全ホールの意見を集約。大手と地元資本の区別なく、全体が納得したうえでの移行を目指した。藤井理事長は、この合意形成を熊本県遊協が掲げる「一致団結」の成果と受け止める。
現場準備も同時に進めた。システム改修業者と、一斉移行に必要な作業時間や貯玉再プレイで対応できること、できないことを整理し、旧条件での貯玉の引き出し期限などを決める参考にした。県警本部の許可事務担当者には等価営業を廃止する方針を説明し、各店には一物二価にならないよう適正な景品運用を指導。変更内容を店内に掲示し、利用者へ事前に説明することも求めた。
県遊協が定めたのは最低交換率10.8割以上であり、貸玉・貸メダル数を一律に決めたわけではない。内税方式から外税方式へ変更して条件を整えたホールもあり、貸玉数を変えるか、交換率を変えるかは各経営者の判断となった。このため、県内ではおおむね10.8~11割の非等価営業へ移行しながらも、具体的な方式には店舗ごとの違いが残った。
震災が移行直前の現場を襲った
改革の直前、令和8年熊本地震が県内を襲った。テンガイ宇土店は7月31日の店休日を経て、8月1日から新たな営業を始める計画だったが、店舗は大きく被災。営業再開のめどさえ立たず、準備してきた非等価営業は始める前に止まった。復旧と改革という二つの課題を同時に背負うことになったのである。
モナコパレスは組合が示した期限に先立ち、7月7日から店舗ごとに順次移行を始めていた。本来は県内で足並みをそろえて案内する予定だったが、地震によって周知や改修の進み方にばらつきが生じた。それでも最終的には全店が対応を終えたという。被災状況が異なるなかでも移行を完了できたことは、組合と各ホールが改革を後戻りさせなかったことを示している。
移行期の現場では、本来なら新しい交換条件の掲示、会員への説明、システム設定の変更、旧条件で預けられた貯玉・貯メダルの取り扱いを順序立てて進める必要があった。ところが震災後は、建物や設備の安全確認、遊技機の点検、従業員の生活確保が最優先となる。店舗ごとに被害の程度や再開時期が異なるなか、営業改革の期限だけを一律に追うことはできず、組合と各社には被災状況に応じた柔軟な対応が求められた。
(以下、九州最後の牙城・熊本、等価交換の終焉②に続く)
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