全の大罪〜パチスロに熱狂と空虚をもたらした全という劇薬〜

2025.08.13 / ホール

かつて「全」は常連向けに密かに行われ、日々の愛顧を感謝するために行われる「まれなお祭り」であった。しかし、いつの頃からか特定の日や演者の来店日、取材日などにはあって当たり前。むしろなければディスられるものになってしまった。「全」が生み出しているかも知れないさまざまな弊害と、そして適切な運用について考える。この状況の行き着く先にあるものとは……。


 「何を期待して朝から打つのか」

 パチスロを打つユーザーにそう問うた時、多くの者が「高設定を打つため」と答えるに違いない。

 ある者はリセット恩恵を狙い、ある者は据え置き天井を狙う。人により理由はさまざまあるだろうが、やはり高設定、特に6をつかんだ時の感動は人類皆共通の格別な瞬間であり、ホールへ通うモチベーションに直結する。

 そして古来より、常連客と店長の間では、そんな高設定を巡る騙し騙されの読み合いが繰り広げられてきた。高設定が存在しているという事実は、ユーザーに宝探し的な楽しみ方を提供する。

 昔からあるオーソドックスな設定の入れ方としては、末尾やカド、前日のヘコみ台、語呂合わせ、メーカーのローテーション、新台、移設台などなど。朝イチのクレジットオフや朝イチの図柄ぞろい示唆を含め、時代ごと・店ごと、店長ごとのクセを「演出」することで、常連たちに読みの材料を提供し、それを探す喜びを感じてもらってきていた。

 この繰り返しの中で、ホールはお客さまを自店のファンに育て上げ、平日にも通ってくれる常連を増やしてきたはずだった。6は散らして当たり前。見つけた人へのご褒美という大前提の中で、全台系イベント(以下、全)は、普段なかなか高設定をつかめていない人たちへ分かりやすくプレゼントをする、一部のホールが実行する、滅多に行われることがない特別な還元イベントであった。特定機種を6にするのか、はたまた456にするのか。規模はあくまでお店のできる範囲で。

 常連客が朝から全のコーナーに予期せず着座するのもよし。あるいは全が発見されることのないまま夕方を迎えたとしても、仕事帰りのサラリーマン層が、夕方から全を発見してくれるのもよし。その驚きの表情を見せた後、「店長やるね」などと言われようものなら店長冥利に尽きるというものだ。

 そして、そのようなドラマが日本全国で繰り広げられた結果、全はユーザーの間でも「滅多にお目にかかれないお祭り」から「特別な日には期待できる存在」になっていった。今となっては、自ら設定を打っている店長であれば、突発的に発動させることもあるだろう。やがてそれがどの店舗でも当たり前のように行われるようになると、「お客さまのために」と考えて実行していた仕掛けが、時として批判の対象になることもある。多くのホールが全を当たり前にやりすぎた結果、いつの頃からか「全はやっていて当たり前。むしろないと失望する」という、ホールにとって高い高いハードルになってしまった。 

 


現在の「全」は
常連向けの施策ではない

 このところ広告宣伝規制が緩和され、インフルエンサーを使ったPRや出玉ランキングの掲示などが可能になった。その結果、全は最もお手軽に、店の出玉や設定をアピールする手段となった。特に、万枚を超える出玉の獲得が頻発するスマスロでは、人気のある機種、あるいはそのホールがメインとして使っている機種に集中して6を投下する。これが、「特定日」のお約束のようになってきている。データ公開サイトやSNSの発展によって、営業状況は店に行かなくても分かるようになり、ユーザーが「今日何本、全があるか」でホールの強弱を判定する時代へ突入している。

 改めて言うが全は分かりやすい。集客要素としてはこの上なく効力を発揮するし、その後の広告宣伝的効果としてもしばらくは効力を発揮するだろう。客層が守られているようなホールにとっては、純粋に常連客への還元という、当初の目的を果たせているため、健全な全とでもいえようか。今の時代、絶妙なコントロールで常連と集客を両立させて全を実行していくのは、店長の手腕の1つと言えるかもしれない。

 が、どこかに集めた分しわ寄せも当然発生する。朝イチの抽選で全に座れるかどうかが、その日の勝負がほぼ決するという状況になってしまっている。これ自体が一概に悪いかというと、一方で、その強力な引力によって、ホール経営の形を変えてしてしまうのも事実だ。

 例えば、全だけを狙い撃つ専業・軍団の存在によって客層が荒れるということだ。パチスロで勝つことを絶対とする彼らの行動には遊びはなく、少しでも勝率の高い打ち方をするために全の対象機種を狙い、台取り競争が激化する。さらにはその軍団集中による空気感の悪化。並びが過剰になったり、大きな話題になっていないだけで、トラブルは多い。また、毎日朝から並ぶことができ、人数もそろえられる軍団が圧倒的に有利な状況を与えている。

 たまたまマイホの特定日と休みが重なって朝から並ぼうとした常連客が、大挙して押し寄せている怖そうな人たちを目の当たりにしたら、素直に楽しめないのは仕方のないことだ。

 分かりやすくいえば、全とは、その日の勝負どころを朝イチの抽選に集約させてしまうシステムであるため、パチスロの楽しさの1つである、「客と店長との駆け引き」という要素を削ぎ落としてしまっている。

 SNSなどでは「全不要論」を唱える人もいる。一口に客と言っても、全の恩恵を受ける人と、全の存在によって割を食う人がいる。片方の利が片方の害となり、本来喜ばれるべき全なのに批判が向けられるというのは、ホールにとってあまりにも不合理な事実だ。

 全をやれば当然予算をひっ迫する。パチスロの放出を実現させるために、パチンコから利益を取らざるを得ないという、ホール内の収益構造のバランス悪化も見逃せない。パチンコファンにとっては、「玉で回収してメダルで出す」という今の状況は、決して気持ちの良いものではないだろう。

 パチスロが薄利多売体質になっているのは業界全体の傾向といえるが、それは良いとして、設定を使っているのに、「全が見えなかった」として批判されてしまうのは、逆にホールが割を食う形になっている。

 人気機種では定期的にやらざるを得ない「全」が中古導入の足枷になってしまっている店舗もあるだろう。これらを鑑みるに、実は今の「全があって当たり前」の特日営業をヤメたいと考えている経営者・運営責任者はかなり多いのではないかと考えられる。全などは本来あるだけで「異様なこと」であるのに、それにかかるユーザーからの期待が高まりすぎており、はっきり言って現在の状況を「過当な状況だ」と見るホール関係者もいる。

 2011年以降の広告規制の中で何とか「出玉」や「設定」でお客さまを呼ぼうとしたホールの営業努力であった。ただ、安易に全に頼るのは、思考の放棄だ。全の話は突き詰めていくと、ホールは誰に玉を出すのかということに尽きるかもしれない。


「全」の大罪とはこういうこと。

 震災後の広告規制以降に極端に増えた「軍団」は、それまでのいわゆる「ノリ打ち軍団」とは様相が違った。その手口は例えば金銭で人を雇い並びから台確保までを「引き子」に代行させ、開店からは即休憩などの遅延行為で周りが「全」を炙り出すのを待ち、高設定濃厚となってからようやく「打ち子」と交代して遊技を始めるというものだ。この笑えない存在は多くのホールにとって邪魔以外の何者でもなく、見つけ次第出禁の沙汰を下すようにルール化しているお店がほとんどだろう。

 しかし、その手口や手法は年ごとに巧妙化しており、被害を完全にゼロにするのは難しくなっている。なんせ特日に並ぶほとんどのお客さまは一見客であり、どれが軍団でどれが一般の連れ打ちのお客さまかなど本質的には見分けるのが不可能だからだ。

 従って金銭のやり取りや台の受け渡しなどを目撃し次第遊技お断りにしていくしかないが、これらも所詮は対症療法に過ぎず。根本的な解決にはならない。

 全を基軸にした特日偏重の集客戦略がある以上はこうした軍団が湧いて出てくるのは必定であり、言い換えるなら、全の存在はこのような軍団にとっては、極めてイージーゲームだ。

 なんせこの数年は各店の全狙いの軍団や専業の数が倍々ゲームのように増えており、直近のゴールデンウィーク期間や令和7年7月7日のゾロ日などは日本中で乱闘騒ぎを含む並び崩壊の報が相次いだ。

 数に任せて朝から並び、良番を引いたメンバーで店のメイン機種を押さえればいいだけの簡単なお仕事なので、軍団の数も構成員も増えて当然、そしてそれに反比例して、並びのモラルは低下して当たり前なのである。

 そして現在、広告規制はどちらかというと緩和の傾向にあり、機械性能は激化の方向に舵が切られている。これらを踏まえ今後「招かれざる客」の数はさらに増えると見られ、特に朝のオペレーションに携わるスタッフへの負担はより大きくなっていくのが想像できる。

 つまり、朝の抽選ですべてが決まってしまうと考えるお客さまの割合はさらに増えてゆくだろうが、果たしてそのような遊びが広く「国民の娯楽」として支持されるだろうか。

 全は長い目でみると遊技人口の増加にとってもマイナス方向に作用するやも知れず、やがてはこのパチンコ業界というものすべてを台なしにしてしまう可能性すらあるかもしれない。

 大げさな話に聞こえるかもしれないが、胸に手をあてて考えてほしい。若い頃もしパチスロという遊技が「入場抽選に勝った人だけが横並びで作業のように万枚を出すのが当たり前のもの」だったならば、果たしてそんなものにあなたはハマっていただろうか。


適切な「全」運用を考えよう。

 全とはつまり、規制によってできなくなった広告宣伝の営業努力であってほしいと願う。周年日や特日などの黙っていても人が来る日でも、人気店がやるようなメイン機種や人気機種に、大砲を撃つかのように投じる全はものすごいインパクトがあるし、それゆえにユーザーの想像、期待度を超えることを実行している。これらはまだ健全な全といえるが、思考停止のように高設定を固めて入れたり、ユーザーのヘイトが集まっているから入れるというようなことは避けるべき状況かもしれない。確かにそこに固めれば確実に炙り出されるので派手な数字は出るだろう。

 そして、それを取り上げるデータサイト、演者、インフルエンサーなど、勝てる店としてブランディングをしていきたいのであれば、こうした根回しも必要だ。あるいは、事例としては多くないかもしれないが、「サイレント全」。常連客だけがわかって味わってくれればいいというパターンもある。つまり、全をやる目的はお店によって異なるため、一概に善だ悪だと批評することはできないのだが、目先の「出玉感」を優先するこのような全に、価値を感じるユーザーは少ないだろう。

 例えば今年は並び崩壊が起きたとみるやすぐに設定を打ち直し、メイン機種を殺して低貸を全にしたホールが話題になった。このムーブはネット上で「常連のための全」であり同時に安易な「全」が呼び寄せたノーモラルの軍団をピンポイントで狙い撃つ行為であるとして大きく称賛された。

 さらに近年は「特日」からあえてずらして翌日に全を行なったり、また「からくり」や「ヴウヴ」など見え見えの機種のカラーがはっきりしている演者が来る日に敢えてぶっこ抜くなど、「全匂わせ」を逆手に取った軍団殺しのアクションをする店の話題も目にすることが増えてきた。

 繰り返すが全はあるのがそもそも特殊であり、なくて当たり前のものなのだ。そうしたからといって店が批判を受ける状況がおかしく、それによるブランドイメージの毀損などを過度に恐れることはない。むしろ全が招く数々の軋轢やデメリットを考えると、「6は散らして入れるべし」「固めて入れる店長はセンスがない」といった方向に、お客さまの常識を変えていかねばならない時がもう来ている。やるにして「全」はあくまで常連客のためのお祭りであり、大々的に宣伝して遠くから人を呼んでやることではないと改めて位置づけるべきである。

 全には強烈な光が当たる。その光が強いほど影も濃くなっていく。果たしてその影で泣いているのは誰なのだろうか。 

全の大罪, パチスロ