【パチンコ業界版】しくじりティーチャー-第2講座(林万喜)

2023.10.24 / 連載

講師
林万喜

1974年熊本県牛深市生まれ。日本体育大学卒業後、1998年にマルハン入社。ツインパーク豊田店に配属。2002年2月にマネージャー昇進、同年11月、九州初出店により異動→二又瀬店のGO、小山店のGO、苅田店のGOを経験。二又瀬店時代には、店舗にトラックが突っ込まれるトラブルも。2004年10月に店長昇進。2006年9月にはマルハンユニオンが結成され、中央執行委員(非専従)に就任。2008年10月に中央執行副委員長(専従)、2011年10月に中央執行委員長(専従)就任、現在に至る。UAゼンセンでは総合サービス部門(執行委員)、総合サービス部門政治活動特別委員会(副委員長)など多数の役職を持つ。

かつて林が地元法人と争いTVデビュー(?)を果たしたマルハン 上越店。2020年8月、借地権の終了をもって幕を下ろした。

しくじり10年でたどり着いた

「一緒にパチンコを盛り上げよう」

パチンコ業界版しくじりティーチャー。 マルハンユニオン中央執行委員長の林万喜(はやしかずき)は今年、賃金のベースアップを勝ち取った。しかし林には、華麗なキャリアと仕事ぶりからは想像できない〝しくじり〟がある。林本人に語ってもらった。私は元々教師を目指していました。父と同じ日体大で陸上選手として汗を流し、教員免許を取り、卒業後は体育教師になると決めていました。パチンコとはまったく縁のない生活だったのですが、忘れもしない1998年7月7日、大学から電車で数駅のところに巨大なパチンコ店がオープンしたのです。

マルハンパチンコタワー渋谷。

社会へ出る前に遊んでみるかと興味本位で訪ねたところ、腰を抜かすほどの衝撃を受けます。パチンコの薄暗いイメージはどこにもありませんでした。

翌日、大学の就職課でパチンコ関連企業を見たところ、ほとんどない。メーカーは2社。ホールはマルハンの他2社です。

運良く内定をいただき、親に頭を下げて入社を決めます。韓裕社長の語る「業界を一緒に変えよう」との言葉に胸を熱くしました。同期の新卒は100名弱。私はもちろんパチンコタワー渋谷店を希望しました。しかし、配属されたのは静岡のツインパーク豊田店。「え、どこ?」。見たことも聞いたこともない土地の配属先で待っていたのは、ヤカラのような店長、酒臭い幹部、マイクパフォーマンスでやかましい店内と、まさに〝パチンコ屋〟でした。

理想と現実の狭間でメンタルは徐々に削られます。出勤前は腹痛に悩まされ、仕事を終えると謎の腹痛は綺麗さっぱりなくなる。そんな日々が続きました。ストレスから解放されたのは1999年11月。新小岩店のグランドオープンに参加してからです。古いマルハンから脱却した新店舗は、思い描いた夢を実現できる場所でした。メンタル的にもイケイケとなり、仕事が楽しくて仕方ない。当時のしくじりといえば、盤面の前止まり(玉がかり)を直してるとき、そのまま気を失うように寝てしまったことですかね。ガラスに頭を打ち付け崩れ落ち、大騒ぎになりました。

高校・大学と陸上一筋、基礎体力は人並み以上でした。連続した出店計画の波もあり、体力勝負のグランドオープンに駆り出されます。忘れられないのは2001年。マネージャー(主任)として赴任した上越店での出来事です。上越といえば玉三郎さんの本拠地。その店舗横にマルハン上越店を出店させたのです。全国チェーンを迎え撃つ地元有力店の名物社長としてマスコミが取材に入り全国放送されました。そこに視察に来ていた私まで、思いきり映り込んじゃったんです。常連さんからはしばらくイジられましたよ。

それだけなら笑い話ですが、九州初出店となった福岡二又瀬店で事件は起こります。2003年5月、同店の立ち上げメンバーとして赴任したところ、トラックが突っ込んだんです。地元で強大な勢力を持つ 指定暴力団よる襲撃でした。

二又瀬店はこの後も発砲事件がありましたし、グランドオープンの日に店内で〝みかじめ料〟を請求されたこともあります。店長となって赴任した鹿児島鹿屋店では、暴力団風の客が自宅までやってきて身の危険を感じました。もちろん要求には応じませんでしたし、今でこそ暴力団関連の話はなくなりましたが、当時は「しくじれば死」みたいな怖さを感じたものです。

都城時代の私は稼働を立て直して有頂天になっていたこともあり、毎晩飲み歩いていました。小さな街ですから、どこへ行っても常連さんや地域の商工業者さんがいる。ここで初めて地域との関わりを知り、顔をつきあわせて語り合うことも増えていった。

そこで、これも関わりの1つだと、組合の懇親会で司会をやったんですよ。ライバル店からすれば〝最大の敵〟がやってきたわけですから、冷たい視線が注がれると思っていました。しかし、違ったんです。メチャクチャ歓迎された。オーナーさんたちはビックリするほど陽気に話してかけてくれる。盛り上がる会場で、あるオーナー社長が言った「林さん、一緒にパチンコを盛り上げましょうや!」との声に、思わず唾を飲み込みました。若き日の私を動かした「業界を一緒に変えよう」という韓裕社長の言葉を思い出したのです。競合店は倒すべき相手。しかし彼らは日常のライバル関係を一旦横へ置き、「一緒に盛り上げよう」と。ひょっとしたら、みんなで業界を変える方法もあるんじゃないかと感じたのです。

そこで告げられたのは—  「今日から君たちは、マルハンユニオンで働いてもらう」との一言。ユニオン? 労働組合!? なぜ私が?? 都城店での転機以降、私は「我々はリアルタイムで人と交わらなきゃダメだ」と主張するようになっていました。どうもその発言が当時中央執行委員長の目に止まったようです。

当初は店長職との兼業でしたが、パチンコ労組の先輩・ダイナムユニオンさんらと意見交換する中、労組の活動は〝一緒に〟の概念と合致すると気付きます。私は労組専業の道を歩み、日本中を駆け巡ること5年。三代目・中央執行委員長の指名をいただきました。

しかし、委員長に就任して10年。一度もベースアップを勝ち取れない。社内では「千円のベースアップより5万円の一時金の方が嬉しい」との声もありますが、パチンコ業界の賃金水準は他業種と比べ相対的に下がり続けていた。賃金交渉はベースアップこそ本丸なんです。なのに上がらない。毎年毎年〝しくじり〟を重ねてしまったんです。

今年、我々はついにベースアップを勝ち取りました。他業種と比して低い給与水準ですが、なんとか前へ進めた。しかしコロナ以降、マルハンの従業員数は減少を続けています。業界全体を見渡しても低調傾向に歯止めが掛からない。

そんな今だからこそ、「一緒にパチンコを盛り上げよう」の言葉は深い意味を持つように思うのです。

しくじりティーチャー, 林万喜