パチンコ業界のイメージの変遷と今後

2019.10.06 / コラム

パチンコ日報とシナジーアーク共催によるホール社員の集いの第2弾「残念な離職0を目指す取り組み」より再録。

第三講座

パチンコ業界のイメージの変遷と今後
梁よう(オフィスヤナモト代表)


昭和36年(1961年)に始まる大阪方式(3店方式)は暴力団排除と身障者寡婦など社会的弱者とされる方々の雇用の創出を目的に大遊協と大阪府警の二人三脚で進められました。

では、なぜ、大阪府警に認められたのか? 3店方式の生みの親ともいうべきキーマンが水島年得さん(初代大遊協理事長)で戦前、大阪府警の警察官だった。戦後、民間人となり心斎橋でパチンコ店を開業し、暴力団の景品買取を締め出す方策を模索した結果、水島さんが考案して誕生したのが3店方式で、全国へ拡大したと聞きます。

昭和57年(1982年)NHK銀河小説「本日開店」は、パチンコ店を舞台に酒井和歌子さんや森本レオさんが出演しました。



昭和61年(1986年)全遊協(1990年解散)が発行した「全遊協20年史」では、当時の首相の中曽根康弘氏が祝辞文を寄せていました。



1986年に全遊協が創設したパチンコ文化賞では野党第1党日本社会党党首の土井たか子氏が受賞式に出席しました。

昭和63年(1988年)に制作されたパチンコをテーマにした映画「ほんの5グラム」には布川敏和さんや俳優デビューの福山雅治さんが出演しました。

また、長年にわたり業界は青少年健全育成の啓発映画製作への寄与や社会福祉施設への寄付を行なって来ました。

いくつかのターニングポイントはあるものの業界は射幸性の向上と規制される事を繰り返してきました。

一方で社会貢献を果たしてきた事で存在が容認されてきました。この事は上述の過去の取組から伺えます。また、メディアにも現在よりも好意的に取り上げられました。

射幸心、規制、社会貢献、社会的容認。昭和の時代はこのバランスがうまく取られていた事が伺えます。

平成の時代からそのバランスが崩れます。
その原因は下記の事柄などが考えられます。

①射幸心が高くなりすぎ、還元率も年々低くなった。結果勝ちにくくなりファンの離反へ。
②コンプライアンスの重視。
③ネット社会による偏った情報拡散とそれを信じてしまう人がいる。
④グレーを許さず白黒つけたがる風潮がある。
⑤趣味娯楽の多様化。

令和の時代となり、社会貢献にとどまらず社会的責務がますます問われる傾向になります。
現状のままなら業界イメージは良くはなりません。過去は変えられないが未来は変えることができます。慈善事業で止まらないCSR活動。ステークホルダーを意識することが重要となってきます。

また、スポークスパーソンの育成が必要であり、その事で業界を正しく知ってもらうためのロビー活動を活発に行うことが出来ます。業界が難しいなら会社で、店で、個人でもいい。 参院選で話題のN国党、令和。皆さんが立花氏や山本氏には成れませんが初めは1人。1人からの発信は学びがあると思います。






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