【水曜】第121回パチンコ雑誌ライター喜納臭蔵の視点

2016.08.24 / 連載

第121回 果たして「日本の文化」なのか

「パチンコ・パチスロは日本の文化」と、業界団体の方々はことあるごとにおっしゃいます。メディア的にもそういうことになっているようです。

確かに日本で生まれ育ってきたものですから、そういう見方を否定する気はありませんし、そう呼ぶのも間違いではないでしょう。「文化」という言葉は曖昧かついろいろな意味があり、定義すること自体が意味のないことかもしれません。

それでも30年以上のユーザーである筆者としては、パチンコ・パチスロを「文化」とするには、正直、違和感があるんですよね。なぜなら、パチンコ・パチスロは結局のところ勝った負けたでしか語られないから。また、発信する側にも受け手側に(無意識であっても)なんらかの思想があるものが文化だとすれば、残念ながらどちらにもそういうものがあるとは思えない等々。

産業や業界としては成熟していると思います。でも、もし明日からパチンコ・パチスロが世の中から無くなるとして、金銭的な面以外で困る人がいるのかどうか。善悪問わず、金銭面以外で社会に影響力があるものが「文化」だと筆者は考えますし、だとしたらパチンコ・パチスロはまだ「文化」ではないのかなと個人的には思います。

パチンコ・パチスロを「文化」へ昇華させるためには、やはり日常生活のなかで欠かせないものになるしかないのではないでしょうか。パチンコ・パチスロは「大衆娯楽」が原点。しかし今のパチンコ・パチスロは娯楽と呼ぶにはおこがましい。気軽に手を出せない人も多いですし、「大衆」という言葉はふさわしくありません。

もし昭和時代のような「大衆娯楽」のまま順調にファン人口を増やし続け、同時に産業として成熟していたとしたら、筆者も「パチンコ・パチスロは日本の文化」という言葉に違和感を持つことはなかったのかもしれません。でも遅きに失することはありません。今からでも「大衆娯楽」とはいったい何なのかを考え、そして追求していけば、本当の意味で「パチンコ・パチスロは日本の文化」になれるのではないかと期待しています。

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パチンコ・パチスロライター 喜納臭蔵(きなくさぞう)

学生時代にパチンコ・パチスロの魅力に取りつかれて、はや30年以上。黎明期から始めたファン雑誌でのライター活動も20年を超え、このままずるずると続けるしかないなと(やっと)覚悟を決める。ファン側の立ち位置にこだわるが故に副収入は一切ないが、なけなしの財布から年1回のマカオ旅行も継続中。メールアドレス:kusazo@yahoo.co.jp

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