立志伝 浅井秀樹(株式会社第一住宅 代表取締役社長)

2019.08.09 / 連載

外資系から転身した経営者が描く
パチンコ店の新たな役割

ホール業は「前金」でキャッシュフローがいい

「第一プラザ」の屋号で埼玉県を中心にパチンコホール11店舗を展開する第一住宅。ホールの他にはビジネスホテルやカルチャーセンターの経営、不動産、建築業、保育園の運営なども手がける。2019年3月期の売上は382億円、従業員数は500人強の中小企業だ。
同社は1964年創業(1973年設立)、割賦販売を売りにした街の総合百貨店からスタートした。その後、不動産ブームの中で建売業に転向、過去には埼玉県内で2000棟ほど手がけていた。1975年からはパチンコホール事業にも着手、同社の柱に成長した。
代表取締役社長の浅井秀樹がこう話す。

「ホールを始めたきっかけは、創業者であり弊社会長でもある河野経夫が友人から勧められたからだそうです。その友人が言ったのは『ホール業は前金だよ』と。『回収まで長い年月がかかる住宅と違ってホールはキャッシュフローがいい。初めのイニシャルはかかるが、その後、楽になるから』と。そこに惹かれたようです」

すでに埼玉県の狭山駅前に不動産を購入し所有していた同社は、そこに第一号店となるパチンコホール「第一プラザ狭山店」をオープンした。以後、着実に店舗をふやしつつ、業績を拡大してきた。


外資系企業からの転職を決断させたトップの一言

そんな同社に浅井が入社したのは2013年。翌年は創業から50年を迎える年だった。大学卒業後、大手繊維会社でマーチャンダイザーを10年ほど務めたのち、人材紹介・派遣・請負ビジネスの企業の立ち上げに関わり、経営に20年近く携わった。そして、50歳を機に第一住宅の次期社長候補として〝転職〟してきたのである。
まったく畑違いの業種からパチンコ業へ。そのきっかけについて浅井はこう話す。

「直前の仕事は外資系の人材会社の社長をやっていました。その時、知り合いから、『お前の会社は税金を納めているのか?』と聞かれたんです。外資(オランダ)系の日本法人ですから実態はほとんど納めていません。日本で働いているのに、納税義務を果たしていない。このまま外資系に居続けてもいいのか、と50歳を機にいろいろと悩んでいたんです。そんな時に第一住宅が社長のポストを探しているよと、人材紹介の仲間から聞きました」

創業から今年で55年を迎える第一プラザ。そんな同社の経営には創業者・河野の家族や親族は一切関わっていない。そんな中で、生え抜き社員のトップ候補が40歳代前半で、会長が70歳代。そのギャップを埋め合わせる適任者として浅井が迎え入れられたのだ。

「私の実家が質屋をやっていまして、以前、親父から『後を継いでくれないか』と言われましたが、それを断ってサラリーマンになりました。それから時を経て、今度はこちらの会長から『後を継いでくれないか』と言われました。昔、父の願いを断った申しわけない気持ちが、ずっと心の内でひっかかっていましたから、あの時の父にもう一度誘われているようで……。『お役に立てるならばぜひ』と引き受けました」

さらに、浅井を後押ししたのは河野が発した「納税はリッチマンへのパスポートである」というセリフだった。

「直前に勤めていた外資系企業は年商700億円ほどの売上がありましたが、税金はほとんど納めていません。それは過去に父の仕事を継がなかった記憶とともに、もう1つのわだかまりとなっていました。そんな時にパチンコホール経営であってもきちんと納税し、社会的役割を果たすことが正しいリッチマンであるという話を聞かされ、自身の中にあったわだかまりが吹っ切れました」

そんな同社は1994年、パチンコホール企業では数少ない優良納税法人として所沢税務署から表敬状も受けている。

常に当事者意識を持ってサービスのレベルを上げよ

経営者ハンティングの形で他業種からやって来た浅井。50年の歴史ある会社に、ある日突然、社長として就任し采配を振るう心境や、周囲の反応はどうだったのか。
「入社する動機となったのは会長の言葉でしたが、入社後この会社で働いていくための背中を押してくれたのは社員たちでした」として、こう話す。

「入社前に4カ月間の準備期間がありました。その間に第一住宅の営業所に行き営業マンに『息子が家を探しているからいい物件はないか』、狭山の第一プラザに行き『打ち方を教えてほしい』などと言っては、その対応を見ていたんです。それで出た結論は『みんな素直な人たちだった』ということです。みんな丁寧に向き合ってくれた。でもプロフェッショナルさが足りないな、と」

創業オーナーが長年にわたって社員に伝えてきた思い、「①環境整備」「②お客さま第一主義である」「③社会貢献性の高い仕事をやる」は愚直に遂行している。そんな社員だからこそ会長の一言で(新社長としての)入り口はすんなりいけた。その後、3年間は信頼関係作りのために役職社員を毎月2組自宅に招き、愛妻手作りの料理を振る舞った。そうしていくうちに、多くの社員たちが心を開いてくれたという。

社長に就任して約6年、一番大変だったことは何か。
「創業オーナーが50年間トップに居続けたことで、よくも悪くもオーナーに対する社員の意識が強いんです。右を向けと言えばすぐに右を向くが、強い自分の考えはない。つまり自分で考えて動くことが苦手なんです。ヒエラルキー型組織の最たるものです。だからこそ一代でここまで成長できたとも言えるんですが、これからの時代はそれでは企業は生き残れません」

入社後、「社員は想像以上にトップを見て動くという意識が強い」と感じた浅井。指示に忠実であることは必要なこともあるが、変化の激しい今の時代にはそぐわない部分も多いという。

「私たちの仕事はお客さま相手のBtoCビジネスです。瞬間瞬間でお客さまと相対するのはメンバー1人ひとりですから、お客さまはその1人ひとりを見て弊社を印象付けます。そこでいちいち指示待ちをしているようでは、お客さまが満足いくものを提供できません。ですから常に当事者意識を持ってサービスのレベルを上げていかなければいけない。5年かかりましたが、最近はそうしたマインドを持ち始めた社員が増えています。射幸性が低くなった今のホールをどう支えるのか、高齢者が増え若年層が取り込めない現場でいかに顧客の満足度を高め、ロイヤルカスタマー化していくのかなどの課題に現場スタッフが真摯に向き合いながら行動するようになってきています」

 

続きは8/15発行のPiDEA Vol.156で

 

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