立志伝 新井丈博(株式会社晃商 専務取締役)

2020.03.11 / 連載

勝ち残り企業同士の競争に備え
「筋肉質な組織」をつくり上げる 

拡大か? 収束か? 新型コロナが巷に蔓延


京都府を中心にパチンコホール18店舗のほか、焼肉店10店舗、温浴施設などを展開する晃商。
創業が1947年で会社設立は1970 年。今年11月には設立50周年を迎える。昨年の12月18日には、四条大橋近くの鴨川沿いという絶好のロケーションに本社の新社屋が完成した。

取材日は奇しくも3月2日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、安倍晋三首相が全国の小学校、中学校、高等学校、特別支援学校に要請した休校日の初日である。
鴨川沿いを散策する人たちも日本人、外国人問わずマスク姿の人が多く、コンビニや薬局ではマスクと、なぜかトイレットペーパーが完売している。

インタビューの切り出しは必然的にコロナの話題になる。イベントやスポーツ観戦、エンターテインメント施設など人が集まるスペースへ出向く行為が次々と自粛され、営業時間を短縮する家電量販店や小売店も出てきた。そして、少なからぬ影響がホール、ひいてはパチンコ業界全体にも及んでいる。

晃商の専務取締役・新井が自社の現状についてこう話す。
「パチンコについては今のところはまだ売上的に大打撃という状態には至っていませんが、高齢者の来店数は減っていると報告を受けています。焼肉店の方は20〜30名以上のご宴会にキャンセルが出ています。その分、小グループの予約増でカバーしているようです。社内の予防策については地域ごとの温度感を見ながら対応し、お客さまの不安をあおらないよう慎重に対応しています。」

ホールは不特定多数の人たちが集まる場所ということもあり、対策は必要だがやり過ぎもよくない。どこまでやればいいか、丁度いい落とし所を探っている状態という。
情報が錯綜する中、働く従業員の家族などが心配し、「マスク着用での接客をさせて欲しい」「出社を控えたい」という声も出ているという。それに対して新井は「まずは冷静に落ち着いて判断し、乗り切ろう」と社内に声を届けている。

拡大か収束か、瀬戸際の時期とされる3月上旬。これから暖かい春の訪れとともに、事態が収束に向かうことを願うばかりだ。

 

現場と本社のパイプ役から全社員を引っ張る立場に


京都市内に西陣織業で創業した祖父の新井東鉉がパチンコ事業に進出したのは1952年。その後、1970年代まではパチンコ業、焼肉レストラン、ボウリング場と時流に合わせて拡大していった。そして、1990年代に入り父の義淳が社長に就任すると拡大スピードは加速。2000年代前半には毎年のようにホールを出店し、06年には売上1000 億円を突破した。

1982年生まれの新井は、事業を興し育てる祖父の姿、それをさらに拡大させる父の姿を見ながら成長してきた。兄弟は姉が3人で「跡を継ぐことは子どものころから刷り込まれていたように思う」と笑う。
もちろん父からも祖父からも面と向かって「跡を継げ」と言われたことなどはない。言わなくてもそれが必然とされていたのだろう。

そんな新井は大学を卒業した2005年に晃商に入社する。入社前年の大学最終年の夏休み、父の勧めから自社のパチンコ店で素性を隠してアルバイトを体験する。4 号機が全盛で会社も出店攻勢に出ていた時期だ。

それまで一度もホールに出たことがなかった新井は、箱の並べ方など簡単なルールを一通り教えてもらってすぐに、看板島である海コーナーを任されたという。

「店はオープンして1週間。担当した島は常に満台状態で熱気がすごく、あちこちのランプ対応で走り回っていました。翌日は休みだったんですが筋肉痛で体が動きませんでした(笑)。ホール現場のキツさや辛さはそこで初めて体験しました」

入社1年目は本社総務部へ配属。営業事務を経験した後、営業管理へ。5年目の2010年には課長職からいきなり専務に就任した。

「当時、専務だった叔父が亡くなり、社長から『専務をやってみろ』と。経験も自信もなかったので、少しとまどいがありました。ただ、いずれは経営を担っていかなければいけないという自覚はありましたし、一緒に仕事をしていた周りの社員の方々の『課長(=当時)ならできるよ。何かあったら助けるから』といった後押しもあって受けることにしました」

専務になった新井の仕事内容はどのように変化したか。
「課長時代は担当店舗があって、店長と相談して営業方針や出玉率のコントロール、メンバーの管理など現場のパートナーとして一緒に意思決定をする動きをしていました。定期的に店舗を訪問し、話をしたりコミュニケーションを取ったりと、本社と現場をつなぐパイプ役のような役割でした。専務になってからは、その延長線上で担当店舗を持ちながら、会社方針の策定・実行という会社経営にも徐々に注力していきました。今はパチンコ担当は離れ、今年からは飲食店を3軒持ち、飲食部門の体制強化に奔走しています」 

 

 

来たるべき日に備え今は飲食事業を強化


パチンコ店とともに、同社のもう1つの柱となっている焼肉店「天壇」は京都、滋賀、東京で計10店舗を展開している。
50年以上の歴史を持つ伝統の味と100席以上のスペース、上品な空間づくりは、発祥の地・京都では老舗として根付いている。近年はテレビや雑誌といったマスメディアにも頻繁に取り上げられているようだ。

また、2017年には新たなチャレンジとして三重県に大規模な水耕栽培工場「名張シティファーム」を開業。未来を見据えて食の品質と安全性の向上にも努めている。

「パチンコ業界は右肩下がりですが、弊社ではまだ収益をキープできています。財務体質が健全な今のうちに飲食部門でもある程度の収益を伸ばしていきたいと思っています。今、弊社の飲食の柱は焼肉ですが、それ以外の業態もチャレンジしていく予定です。例えば、焼肉店とのシナジー効果を出すために韓国料理系の居酒屋を考えています」

パチンコの右肩下がりのグラフはいずれ底を打ち平坦になる。しかし、上昇する材料が今のところ見受けられない以上、その他の業種で企業の成長を見出していくという考えだ。

「市場規模は縮小したとはいえ、パチンコ業界にはまだまだチャンスはあります。この先は勝ち残った企業同士の競争となります。そこに向けて組織体質の改善・強化を進めています」

新井が目指すのは「筋肉質な組織」。
それは縦の情報共有ができていて、意思決定とプランの実現化までが速い、本社と現場に強固な信頼関係ができている状態だ。それにより「来たるべき時に、瞬発力のあるアクションが起こせるようにと考えています」という。

その上で、「やはりパチンコの新規店舗は出したいです。2012年を最後に新規出店は止めている状態です。でも今の業界は出店リスクと先行きとのバランスが悪い。しかしチャンスは来るはずです。それをうかがいながら着実な拡大を狙いたい」と話す。

 


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