NEXUSホールディングス株式会社/D’station株式会社 代表取締役社長 星野万里スペシャルインタビュー

2025.09.16 / ホール

「3500億円企業の社長として、等身大の34歳」

PiDEA編集部(以下、編)星野社長は幼少期の頃、どのような生活を過ごされていたのでしょうか。

星野万里(以下、星野) 思い出話みたいになってしまいますが、私が4歳くらいの頃にパチンコ事業が始まったのですが、前身は運送業でした。経営状況はあまり良くなかったようで、会社を起こした祖母からは「(父は)いつも難しい顔をしていた」と聞いていました。4歳くらいまではそんな姿を見ていたので、裕福という感じではまったくなく、普通のアパートや貸し家に住んでいました。

編 子供の時好きだった食べ物とかって何かありますか。

星野 食べ物……なんですかね? アイスが好きで兄弟と分けていました。

編 ご兄弟がいらっしゃるのですね。

星野 4人兄弟です。私が長男となります。

編 小学生から中学生くらいの時期に、星野社長の価値観の原点が固まっていったかと思いますが、少年時代に打ち込んだものはなんでしょうか。

星野 運動が好きで、小学校時代は陸上競技、110メートルハードルとかをやっていました。小学校時代は純粋にとても楽しかった記憶がありますが、中学時代になると、大変な時期もありました。なぜかと言うと、当時両親の影響でフェンシングを小学校から始めていました。しかし、中学校にはフェンシング部がありませんでした。ですから、地元のクラブに所属していたのですが、練習が週に1回しかなかったんです。それでフェンシング部がある高校の部活に参加させてもらえたりして、ジュニアの日本代表に選んでいただくことができました。

編 その頃のお話を聞くと、順風満帆のようにも見えますが。

星野 そこは時代もあったと思いますが、地方の多くの中学校では、「部活は全員入るもの」という不文律があったかと思います。中学生でありながら高校へ練習に行ったり、移動も含めて大変だったかと記憶しています。 

編 陸上やフェンシングなど、選んだスポーツは個人競技が多いですが、元々の個人の思考もあったりしたのですか。

星野 多分それはあったと思います。実際に小学校3年生ぐらいの時に野球をやっていましたが、団体競技というか球技があまり肌には合いませんでした。ですが、走るのが速かったので、陸上は楽しかったですし、フェンシングもコンタクトスポーツなので格闘技的な要素が面白いなと感じていました。

編 いろんな人と同じ方向を向いていくこと、そういう空気感が合わなかったのでしょうか。

星野 それもあったかと思います。皆と同じでないといけないとか、それを美徳とするようなところが日本人にはあるように感じますが、そこに対する反発心や反骨心は、自分を形成してきた要素の1つではありますね。

編 その当時の会社の状況は。

星野 2004年から2007年くらいでしたので、店舗数も10店舗ほどになっていたと思います。創業から10年近く経って軌道に乗り、これから成長拡大してこうという時期でした。

編 星野社長は反抗期とか、そういうシーンは特になかったでしょうか。

星野 それなりにありましたよ(笑)。10代から20代前後と、皆さんも経験してきたことかと思います。

編 敏代表(※編注、星野社長の父)はパチンコホール10店舗を運営する経営者。4歳当時から比べると環境も大きく変化したかと思います。

星野 両親とも同じ大学のフェンシング部出身なのですが、スポーツがかなり強くて、特にフェンシング部はとても伝統があります。私もフェンシングをやっていましたし、両親も大学でフェンシングをやっていた。「だったら当然大学でもフェンシング続けるよね。その後は何かしらの会社で仕事をして、最終的には会社を継いでほしい」みたいな、なんとなくですが、空気を感じていました。 

編 なるほど。自分の人生は自分で道を決める感覚ですね。

星野 ですから、海外の大学で、体育会系の組織には一切所属せず、学術の道に進もうと決めました。

編 それで名門ブリストル大学へ進学するわけですが、学生時代はどんな暮らしをされていたのでしょうか。首席で卒業されていますので、猛勉強の日々だったのではないかと想像していますが。

星野 当然友人はいましたが、付き合いはそこまで多くなかったので、個人で本や論文を読んでいる時間が多かったですね。そんな大学生活を過ごしていました。例えば、朝起きてジムに行って、シャワーを浴びて課題を終わらせてから大学へ行き、帰ってきたら本を読むみたいな感じです。

編 当時の楽しみというか、何に希望を感じていましたか。

星野 それ自体が楽しかったです。自分の知らない知識を、好きなだけ知れる、学べるという環境が。当然、学生ならではの不安はありました。卒業後は学術係の仕事か、ジャーナリズム関係の仕事に就きたいと考えていたのですが、本当にその道で大丈夫なのかと。

編 家業を継ぐという選択肢を、当然ご両親は残されていたと思うのですが、ご本人からするとどうでしたか。

星野 さらさらなかったですね(笑)。

編 例えば学生時代に帰省された時に、「どう?」と匂わされたりは。

星野 それがないんですよ。父から「家業を継いでほしい」とか、「会社に入ってくれ」など言われたことは、実は一度もありません。

編 直接的な言葉はないにしても、雰囲気は感じていたのでは?

星野 雰囲気は感じてましたね(笑)。

編 ブリストル大学の政治国際関係学部を卒業されて、その後大学院である、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に進学。学術の道も、ビジネスの道も、さまざまな進路があったと思います。どのような判断で、遊技機メーカーに就職されたのでしょうか。

星野 当時、たしかにアメリカ資本のコンサルティングファームなど選考を受けていた会社はありました。ただ、ビジネスをすると決めてからは、今まで一切何も強制せずにやりたいことをやらせてくれた父に対して感謝の気持ちがありました。直接、「ありがとう」とは言っていませんが(笑)。家業を継ぐと決めてからは、異業種から入ってくるという道もあったと思うんですが、業界を知ることは当然必要です。そこは父と話して、「であればメーカーに入った方がより業界のことを知れるだろう」という結論に至りました。 

編 イギリスには4〜5年ほどいらっしゃったと思いますが、この時の星野社長はパチンコのご経験はあったのでしょうか。

星野 いや、まったくなかったです。私はむしろ身近すぎて行かなかったという感じです。そもそも幼少期の頃はホールの中を通って家に帰っていたので、身近すぎてあまり興味が湧きませんでしたし、青年期は人並みに反抗期もあったので、あまり見ないようにしていました。

編 ということはメーカーに入るまではパチンコに関するユーザー的知識もなく、ホール運営に関する知識もなかった。

星野 そうなんです。ですから、この業界でのキャリアは、完全にメーカー側の視点で始まったんです。

編 星野社長は業界に対してどのように感じていましたか。

星野 完全に外野から見ていた感覚です。ただ、基本的にはどの国でも社会でも賭け事は文化として存在しています。当然カジノなんかは分かりやすい例です。人が賭け事を好む性質っていうのは、それこそ紀元前からそういう文化としてずっとあるので、たしかにパチンコはドメスティックな産業ではあるんですけど、それに対して特殊な業界だとは思いませんでした。

編 初めて自分のお金で遊技した経験というと、就職されてからですか。

星野 カジノでスロットを遊んだくらいはありましたけど、パチンコは社会人になってからですね。当時、4パチで1万円を入れた覚えがありますが、この時は当たらなかったと思います。そのうち同僚たちと行くようになり、結構楽しんでいた記憶はありますね。

編 メーカーにいた期間は2年間ですよね。この時はどんな部署にいらっしゃったんでしょうか。

星野 営業職です。基本的にはルート営業でしたが、新規で飛び込み営業などもしていましたね。

編 ご自身のセールスマンとしての成績はいかがでしたか。

星野 成績自体はあまりいい営業マンではなかったと思います。どうしても育ちがホール側の人間なので、営業マンとしてビジネスに徹することが難しいところがあったような気がします。どちらが正しいかという話ではないですが、メーカーにはメーカーの論理が、ホールにはホールの論理がありますからね。

編 2年というのは何か決めていた?

星野 特段決めていませんでした。正直もっといても良かったのかなと思いましたが、NEXUSや会社内部のことを少しでも早くからしっかり把握したいなという考えに至りました。

編 NEXUSに入社し、敏代表の経営を内側から目の当たりにされたかと思いますが、そこから3年経ち、ご自身が今経営者になりました。敏代表の経営哲学とご自身の経営哲学、違いがあるかと思いますが、何が決定的に違うと思いますか。

星野 違いをあげるとすれば、父はどちらかというとデイトレーダーに近いです。オペレーションを突き詰めてきた人なので、目の前のことを確実にこなして結果を出す経営者だと感じています。対して私は、大学や大学院で社会科学を学んできたので、基本的にはマクロの視点で物事を見る癖があります。自分を客観的に見て父と違うと感じることは、中長期の視点で経営戦略を作っていく部分です。帰納法と演繹法のような、目指している結果は同じでも、プロセスに大きな違いがあると感じています。 

編 7月1日から社長に就任ということは、前々から決まっていたと思いますが、その決まった日は、どんな思いでしたか。

星野 心の準備はしてきたつもりでしたので、「ようやくその時が来た」と思うと同時に、「もうこんな時期なのか」とすごく不思議な気持ちでした。

編 心の準備というのは、プレッシャーみたいなもの?

星野 期待ですね。内側から会社を見ていると、今が変われるタイミングだと感覚的に感じていました。であれば、私が社長に就任するタイミングで会社も変わるべきだと思っていました。私が社長を就任をするということは、同時に父である敏代表がある意味では一線を退くことになるので、先ほどの「もうこんな時期が来たのか」というある種の寂しさを感じていました。経営者と後継者という関係性でもありますし、親父と倅という関係性でもあるのですごく難しく、さまざまな感情がありました。

編 「内側から見て会社が変われるタイミング」という発言がありましたが、星野社長から見て、NEXUSは何かしらの課題を抱えていたということでしょうか。

星野 組織として何かしらの課題があるということではありません。

編 今後のNEXUSが進む方向性を教えてください。

星野 売上を伸ばして粗利を増やす方針は変わりませんが、出店に関して言えば、絶対に成果を上げるお店です。SISでいえば、Aランク以上のお店をつくり勝負していく。現場の営業はそこで働く社員のみんなが一番分かっていますから、任せています。私は経営者として、中長期的な方針に則った形で出店計画をしていますので、その判断に関しては基本的には私がしようと思っています。 

編 ちなみに中長期的な目標とありましたが、そのためには人材面が重要かと思います。人的リソースは、どのようにお考えでしょうか。現場の店長レベルでは変化はありますか。

星野 年功序列を撤廃し、どんどん若い店長を登用しています。実績のあるベテラン店長にはそれまでの知識や経験がありますので、それを生かせる部署を用意し、店舗で力を発揮できる若い店長が会社を引っ張っていくべきだと考えています。次長や部長に関しても同じことが言えます。

編 最後の質問です。星野社長にとっての幸せとは。

星野 難しいですね(笑)。どちらかというと趣味に没頭する人間ではないので、今は仕事を楽しんでいます。楽しんで仕事をした結果、周りの人が応援してくれたり、ステークホルダーに対しても良い影響を与えられている時。それがすごく自身の中では充実感があり、充実している瞬間かなと思います。


 

星野万里(ほしの・ばんり)/群馬県沼田市出身。高校までを地元で学び、その後イギリスに留学。ブリストル大学では、政治・国際関係学部を首席で卒業。後は社会科学系の研究でロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの大学院に進学。以降、遊技機メーカーの営業マンを経て2022年にNEXUSへ入社。

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