【3.11特別取材】被災地ホールの「いま」【Web復刻版】 (後編)

2021.03.11 / その他

2011年3月。東日本が震災に見舞われたそのとき、被災地のパチンコホールの状況を一刻も早く伝えるためPiDEA編集部は特別取材班を組織。ダメージの強く残る被災地を訪れた。

それから10年。PiDEA編集部は当時をなぞる形で、被災地のホールに取材を行い、その様子を2021年3月発行のPiDEA Vol.175に掲載した。

それに合わせて、2011年3月に発行したPiDEA Vol.66より被災地ホールの「いま」をレポートした特集を、Web復刻版として公開する。ぜひ、お手元のPiDEAと見比べて、復興への足取りに思いをはせてほしい。

(前/後編構成・本ページは後編です)


被災地ホールの「いま」

大地震直後と「復興」への道のり

 

2011.3.17 多賀城市・塩釜市

地震の直後ホールに響く 「津波がくるぞ!」の声

昨日降った雪により、厳しい冷え込みとなった仙台。車に乗り込んで、沿岸部の多賀城、塩釜へ向かった。国道45号線で15分ほど走ると、周囲の景色が一変した。海岸から数キロ離れているにも関わらず、津波に流されてきた車が何台も折り重なって道路脇に放置されたままだった。海底のヘドロが周囲に悪臭をもたらしている。ここは石油コンビナートの火災も重なり177人(3月31日現在)もの命が失われた場所。

まずは、多賀城市のホールT店へ。駐車場の地面はドロドロでぬかるんでおり、何度も取材班の足を奪う。たまたま見回りにきていた従業員に話を聞くことができた。「この割れた換金所の小窓は震災後に物盗りにやられたんです。津波で換金所のぶ厚い小窓が割れるはずはないですから…」という。

続けて「地震のあと、お客さまから出玉の保証などについて質問などを受けていたのです。すると、そのうち『津波がくるぞ!』という大声が聞こえてきて、その直後に地を這うようなゴゴゴゴ…と不気味な音とともに、道路上を津波が押し寄せて来たんです。従業員は全員でお客さまを誘導しながら、約150メートル先のカラオケ店の2階へ命からがら避難しました。ただ、その途中、従業員が2人流されました。いずれも命は助かりましたが、一人は津波に流されて電柱に激突して骨折をしています」と震災直後に誘発された巨大な津波の状況を語ってくれた。

 

 

被災ホールに火事場泥棒

次に、塩釜市へ移動。道路は隆起と陥没、地割れ、瓦礫の散乱などによって、通行不可能なところがいくつもあり、何度も迂回を余儀なくされた。S店についたのは、午後3時近く。たまたま店長がいたので、話をきくことができた。「店舗は砂が入ってきた程度で、大きな被害はありませんでした。確認したところ遊技機も無事動きますし、景品も大丈夫でした。ただし、ここにも(震災の翌々日)6人の集団が、略奪目的で換金所をこじ開けようとしていました。しかし、こちらがホールから顔を出したら逃げて行きましたが…。ホールが復旧するメドは、早くて2ヵ月くらい先でしょうね。まず水が復旧しないことには、床に積もった泥も流せませんから」と答えてくれた。ちなみに、このホールは沿岸に300体もの遺体が打ち上げられた地区にある。

同店を離れ繁華街へ移動。すると、驚くべきことに営業中のV店を発見。正面入り口には「店内を開放しています」の張り紙。中に入って従業員に話を聞くと「被災された方々に向けて携帯の充電、待ち合わせ、トイレなどにお使いください」とのことだった。しかも40台ほど(全体の1割程度)であるが稼働もしていたのである。

 

2011.3.18 石巻市

ドロに覆われた駐車場 波にえぐられた石巻

午前10時、石巻市に向けて出発。前日まで通行止めになっていた三陸自動車道の通行許可をもらい走行するも、道が凹凸しており、ジェットコースターのように揺れた。車窓からは、普通であれば田園風景が広がっているのだろうが、津波の海水がまったく引いておらず、巨大な湖の上を走っているようであった。

石巻に着くとホールDが見えてきた。車を降りると、昨日の多賀城よりもヒドい海底のヘドロの匂いに取材班は顔を歪めた。Dの駐車場には、津波に流されてきた船が座礁しており、ホール入り口は完全に津波によって破壊されていた。陸上自衛隊のヘリコプターが上空をなんども旋回し、目の前を緊急車両が往来していた。

 

 

かつて松尾芭蕉の歩んだ石巻街道は、地元では「パチンコ街道」と呼ばれているほどホールが軒を連ねており、D店を出て東を進んで行くと、すぐにP店が目に入った。

車を降りて周囲を見ていると偶然、視察中の同店営業部長がいたので話を聞いた。「震災の翌日にはなんとか売上金をすべて回収することはできたが、この店舗は火事場泥棒の被害にもあっていて、お金以外の高額景品はすべて盗まれました。系列店のなかでもこの店舗は本当にヒドい状況です」と語ってくれた。

さらに東へいくとすぐにホールMが見えてきた。ここの被害も凄まじく、津波でガラス戸はすべて打ち破られており、店内は泥だらけ。電信柱も折れて、丸太もゴロゴロと周囲をころがっていた。郊外店特有の広大な駐車場はドロの層で覆われていた。

 

 

街道を進んで行くと石巻駅に突き当たり、その先は通行止めになっていたため、迂回してさらに東へ。ホールYの近くに着いたので車から降りると、地元の中年男性が話しかけてきた。「報道の方ですか? 私の家の庭に遺体が置いたままになっているんです。遺体は隣家の方です。家の前に流されてきた自動車の中にあった4人の遺体は、警察の方が運んでいったんですが、目と鼻の先にあるこの遺体は放置したままなんです。どうしてなんですかね……」と。そこは携帯電話も固定電話も不通の地区であったため、警察や自衛隊が来るのを待つしかないことを伝えホールに向かった。

Y店は二階建てで、1階がホール、2階が事務所となっていた。隣接する駐車場をのぞいてみると、そこにはY店の常務が訪れており、次のように話してくれた。

「この駐車場には最大で2メートルほどの津波が押し寄せました。店舗は駐車場の場所より少し高くなっていますが、それでも胸の高さくらいまで浸かりました。店内はもう泥だらけで遊技台も水に浸かり、全部ダメですね。大きな波は継続的に10回ぐらい襲ってきました」。続けて「地震後、しばらくの間は出玉の両替でお客さんがカウンターに殺到していたんですが、津波警報が鳴り響き、お客さん全員を従業員の誘導で駐車場の2階へ避難させました。その後、高額景品(腕時計など)やタバコは、その日の地震のあった時間までの売上金が入った両替機と一緒に略奪されました。高額景品やタバコは水が引いて店に入れるようになった12日に、両替機は13日に持っていかれました。暴徒化した地元の人たちなのか、他の地域から来た窃盗団なのか分からない集団が次々に店を壊したり、物色したりする。追い払ってもきりがない。本当にヒドいですよ。この辺のセブンイレブンなどもみんなやられている。でも、それだけじゃない。近くには津波の被害などで亡くなられた方の遺体がごろごろしているんですが、平気でその遺体のポケットを探りサイフを盗んでいるんです。震災後にやむを得ず水や食料を持って行くなら仕方ないとも思いますが、遺体の腕から時計を外してもっていくような光景をあちこちで見ました。本当ならできる限りの弔いをするとか、助け合いをしなくてはならないのに、これが同じ人間のやることなのかと、悲しくなりました」と震災後の荒廃した惨状を語ってくれた。大震災が、人心をも破壊したように取材班には感じられた。

 

泥と丸太が散乱 ホールの天井には魚の死骸

 

午後1時、石巻一帯ではもっとも被害が大きいといわれている石巻漁港沿岸を目指した。そこは前述のY店の従業員でさえ「石巻漁港に比べればここ(Y店周辺)はまだマシです。死者の数も建物の崩壊具合もこことは比べ物になりません。あっちはまるで地獄です」と声を震わせたほど。前日まで自衛隊車両と緊急車両しか通ることができなかった二つのトンネル(牧山西トンネルと牧山東トンネル)を抜けて、たどり着いた伊原津という街は、車中にいても“腐った魚”のような異臭がするほど。覚悟はしていたがこれまでの取材した地域の中で、もっとも凄惨な場所であった。

トラックや乗用車が民家の2階部分に突っ込んでいる。電柱はなぎ倒され、伐採された丸太が町中に転がっていた。それらすべてが津波によって運ばれてきた海底のドロにまみれており、湿って倦んだ異臭が、取材班の鼻を襲った。さらに港方面を目指し、緑町方面へ。この一帯は漁師町として栄え、多くの住民が暮らしていたのだろう。車窓から見える崩壊した建物は、スーパーや衣料品店、ドラッグストア、車のディーラー、病院、コンビニエンスストアなど生活に必要な施設ばかり。地域の娯楽としてパチンコも人気らしく、周辺には5軒ものホールがひしめいていた。

その中の一軒、ホールWには津波によって根こそぎ引っこ抜かれた大木が正面入口に突き刺さり、店内は爆風で吹き飛ばされたように波が襲った部分のみ、痛々しくえぐられていた。その部分には2つの島があったと思われるが、キレイに消えており、代わりに死んだ魚や鉄くず、空調機の破片などが放置されたままになっていた。

そのホールのはす向かいにあるSも被害状況は同様。Sの向かいにあった「ファッションセンターしまむら」や「ローソン」「水産工場」などは外壁も流されており、鉄骨の骨組みと看板だけがかろうじて残っていた。民家も2階まで波が押し寄せていたようで、屋根瓦がまだ乾ききっていなかった。

周囲はどこも静観できないほどの凄惨を極めている。その中で、地元住民や自衛隊員が瓦礫や崩壊した建物を黙々と片付けている。取材班はさらに海辺方面のホールに向かおうとしたが、道路が水没していたり、山のような瓦礫に阻まれ近づけず、引き返すことを余儀なくされた。

帰り道、取材班は、しばらく口を開く者はいなかった。人はかつて経験したことのない現実を目の当たりにする時、言葉を失ってしまうのだろう。どんな表現も客観的で空虚に響くからだ。

 

 

復興への願いを込めて 〜被災地に娯楽の灯をともそう〜

震災からはや3週間が過ぎた(本稿執筆時)。しかし、その余波はいまだに続き、まだまだ収束する気配はない。衣食住が足り、愛する人たちに囲まれ、仕事をし、時には息抜きをしながら今日よりも少しマシな明日を願う。そんな平穏な「日常」がある日突然、消滅する悲劇。人は想像を超える惨状に直面する時、ただ呆然と立ちすくむという。やがて悲しみが込み上げ、それを乗り越えて立ち上がり、いずれ復興という希望に向けて歩き出すはずだ。

震災直後に取材した宮城は被災県の中でもっとも多くの犠牲者を出した。筆舌に尽くしがたい惨状のなかで、壊滅的な被害を受けたあるホールの常務は「昨日は、泥だらけになった景品のお菓子を川の水で洗って近所の人たちと分け合った。今日は本社から物資が届く予定なので飲食に困っている周辺の住民たちに配りたいと思っている」と話してくれた。周囲を見渡すと着の身着のままで、近所同士協力しながら壊れた家や瓦礫を片付けている。ここでは誰もが復旧に向けて懸命に体を動かしている。復旧、復興に向けてパチンコ業界にできることは何か。いまこそ足並みをそろえて一歩を踏み出すときだ。

東日本大震災, 3.11, 被災地, 宮城県