【3.11特別取材】被災地ホールの「いま」【Web復刻版】 (前編)

2021.03.11 / その他

2011年3月。東日本が震災に見舞われたそのとき、被災地のパチンコホールの状況を一刻も早く伝えるためPiDEA編集部は特別取材班を組織。ダメージの強く残る被災地を訪れた。

それから10年。PiDEA編集部は当時をなぞる形で、被災地のホールに取材を行い、その様子を2021年3月発行のPiDEA Vol.175に掲載した。

それに合わせて、2011年3月に発行したPiDEA Vol.66より被災地ホールの「いま」をレポートした特集を、Web復刻版として公開する。ぜひ、お手元のPiDEAと見比べて、復興への足取りに思いをはせてほしい。

(前/後編構成・本ページは前編です)


被災地ホールの「いま」

大地震直後と「復興」への道のり

被災地のホールは? 従業員や遊技客は!?

3月11日午後2時46分。マグニチュード9・0の大地震が東日本を襲った。その直後に押し寄せた想像を絶する巨大な津波が、多くの車や建物、そして街を飲み込んでいく。崩壊した家屋、燃え上がるタンカー、水没した街、寸断されるライフライン、爆発する原子力発電所……。1000年に1度と言われる大地震の発生直後からテレビに映し出される悪夢のような惨状。

余震と不安で眠れぬ夜が続いた週末の2日間。翌3月14日の月曜日に東京の事務所に出社するとパチンコ業界関係者や組合からさまざまな情報が入る。しかし、それらの情報は、いずれもまた聞きのような不明瞭なものばかり。

大震災から3日間、被災地のホールはどうなっているのか、そこで働く従業員や遊技客はどうなったのか。現場を報じることが、業界メディアの役割ではないか。そうした思いにかられ3月15日に特別取材班を結成。翌16日、新幹線・東北自動車道ともに不通のなか救援物資を車に積み込み宮城県へ向かった。

 

2011.3.16 仙台市内

 

雪の降るまっ暗な商店街 震災直後のパチンコ店を探る

ホール軒先に貼られた 手書きで「休業」の張り紙

ホール軒先に貼られた 手書きで「休業」の張り紙  地震発生から5日後の3月16日、早朝7時に東京を発った取材班は、9時間かけて新潟県を経由して山形県側から仙台市に入った―

到着した夕刻、普段であれば買い物客や学生、ビジネスマンなどで賑わう市内中心部はかろうじて通電しているのみ。ビルや商店の割れた窓ガラスと、そこら中に転がっているコンクリート片、隆起した道路が痛々しく目に入ってきた。東北物流の拠点でもある仙台駅は、すべての出入り口に「KEEP OUT(立ち入り禁止)」の黄色いテープが巻き付けられており、うす暗い中で不気味な雰囲気を漂わせていた。通行人の一人は「この辺は、数こそ少ないけれども、まだ営業を続けられるコンビニやスーパーがいくつかある。最低限の食事もできるし、壊れてさえいなければトイレも使える。海沿いのほうに比べれば全然マシだ」と答えてくれた。

宮城県入りして、まず目についたのが仙台市青葉区のAという中規模のホール。降りしきる雪の中、ホールに近づくとシャッターが下ろされ人影はまったくない。正面トビラには、手書きで「震災によるメンテナンスのためしばらくの間休業させていただきます」との張り紙があった。

 

さらにそこから車で5分ほど走るとSという大型ホール。入口3カ所にはさきほどのAと同じように手書きで「休業」の張り紙。社員通用口には「自宅待機」と「携帯電話がつながるように」との張り紙が雪まじりの冷たい風に揺れていた。しかし店の奥に明かりが見えたため、試しにインターフォンを押した。沈痛な面持ちで出てきた従業員は「いま取材に答えられるような状態ではない。店内はぐちゃぐちゃだし、実際に従業員やその家族の安否が把握できていない。答えられることは何もない」とゆっくり自制しながら答えてくれた。

その日最後に仙台駅前のホールを見てまわった。改札の近くに位置するP店内は通電すらしておらず真っ暗。張り紙もない。周囲の道路は隆起とひび割れ、ゴミと瓦礫で凄惨な状況。黙々と商店街の通りを掃除していた初老の女性に話を聞くと、自分の持っていたほうきを指差し「自分にできるのはこれぐらいしかないから…」と手短に答え、再び膨大な瓦礫の山に向かっていった。

次に駅から東西に伸びるアーケード街をみてみるとホールVとGが隣り合わせで目に入って来たが、双方ともシャッターが下り「休業」の張り紙があるのみ。周囲を見渡しても「休業」や「頭上注意」の張り紙ばかりだ。

アーケード街で唯一営業している飲食店は大手居酒屋チェーン「笑笑」のみ。晩ご飯を食べつつ、隣の席の客に聞いた。「この非常事態でも強盗や商品の奪い合いがほとんどないのは、東北人の規律性の高さ、北国ならではの思いやりの精神が現れているのではないか」というのだが「奪い合いがほとんどない」というのも比較的被害の少なかった市内の話であって、取材班が翌日以降に訪れた多くの被災ホールでは、両替機やレジ、自動販売機などから金や商品が持ち去られた痕跡を数多く目にすることになった。

 

後編へ続く

東日本大震災, 3.11, 被災地, 宮城県